May 03, 2007

お釈迦さまの誕生日

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 今日は日本では憲法記念日で祝日だが、インドではお釈迦さまの生誕祭「Buddha Purnima」として祝日になっている(リンク記事)。仏教に関わりの深い国ではお釈迦さまの誕生日を祝祭日としている国は多い。

  • インド 5月3日頃※太陽暦では毎年変る
  • バングラディッシュ 同じ
  • マレーシア 5月3日
  • スリランカ 同じ
  • 韓国 5月26日
  • 香港 同じ
  • タイ 6月2日
  • シンガポール 同じ
  • インドネシア 6月3日

というように、国民の宗教がヒンズー教とかイスラム教とかが多い国であっても祝祭日になっている。なのに日本には花まつりとしての慣習があるが祝祭日にはなっていない。やっぱそういうところに天皇制の思惑があったりするのだろうな。

 5月3日が釈尊の生まれた日であり、平和憲法が生まれた日であることは感慨深い。なぜなら『真実の法』が誕生した日であるからだ。

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July 02, 2006

臨終行儀

 Sさんというご門徒の方で、享年103歳の方が亡くなった。急逝といえる大往生であった。僕はその前日におまいりに行っており、容態が悪くなって救急車が呼ばれる直前にお会いしていた。

 その際は、横臥した身を左右によじりながら苦しそうになさっていた。声をおかけしたら、一瞬ハッとなされ、僧侶の僕に一念合掌なされた。それから、また煩悶しながら、「屏風!屏風を持ってきてー」と家人に大きな声で訴えていらした。

 僕はそのときは、そんなに重篤に思えず、また「屏風」の意味もはっきりとわからなかったため、背中を少し擦ってあげてから、その場を去ってしまった。しかし、その後すぐ救急車で運ばれ入院し次の日の夕方にご逝去なされた。

 僕は、屏風の意味を、たしか浄土信仰の臨終の作法としてあったと思い、Sさんの家人や年長者に尋ねたが誰も存じなかったため、調べて確認してみたら、やっぱりあった。そういえば、近くに仏像も置かれていたことも思い出した。今になって考えれば、臨終の行儀として、僧侶・仏像・屏風が揃う。

 Sさんは、仏教のについての知識・教養がある方だった。なにしろ、古くからある仏教雑誌『大法輪』を若いときから103歳で亡くなる現在まで購読していた程だ。

 だから、Sさんが屏風をたてようとしたのは、やはり臨終の行儀であったのだと確信する。改めて、死を想い生を愛すことによって103歳まで生きられた方の、りっばな臨終であったと敬服いたします。

『東西の臨終行儀』より

道場の飾り方

  道場とは、病室を修行の場にみたてての名前である。場所は西方浄土の方角にあたる「西日の当たるところがよいが、これが出来なければ僧坊、あるいは人の家に新しい物を敷き、屏風を立てて仕切とする。病人がいよいよの時は、座って西方に向かう。病人がふしている場合には、北枕にして表を西に向ける。」次に「三尺の阿弥陀像を用意する。病人の希望によっては他の仏像でも、絵像でもよい。この像を病人から五尺くらい離して置き、寝たままでもそれが見える所に置く。そして仏像の左手に五色(青黄赤白黒)の幡、または糸を取付け、その一方を病人の右手の指に掛け止める。」
  このように、西方浄土から迎えにきた阿弥陀仏に、心ばかりでなく、五色の糸を通じて直接結ばれるようにする。「そして仏像の前に香を焚き、そして灯明をつける。また枕元には鳴らすための磬を置く。このように病人のために準備するものは、屏風(病人の見苦しいところを隠す)、肘かけ、きゅうす、手洗い、紙置きなどである。」

○現代人も、自分自身のみならず家族や大切な人の為にも、心安らかな臨終の迎え方として、『臨終行儀』は大いに参考になるので、心得ておいたら良いと思う。

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April 08, 2006

おしゃかさまの誕生日

 四月八日は、おしゃかさまのお誕生日。おしゃかさまは誕生されてすぐに七歩あるいて「天上天下唯我独尊」とおっしゃったという説話。ひとは誰でも無上尊(比べることなく唯それだけで尊い)であること。その真実に目覚める教えが仏教である。

 現代では自分が無上尊であることに気づけず生きる力を見失っているひとが多い。生きることが苦しくて、自殺するひと、、ウツになるひとが多すぎる世の中だ。
 「自分なんかいなくてもいい、いない方がいい」と考えるあなたへ…。そんなことはないんだよ、絶対にない!あなたには生きてほしいんだ、生きて生きて生きて、そうして無上尊である本当のあなた自身を見つけ出してほしい。それがおしゃかさまの願い。
 そういえば「メイドカフェ」とか最近は「執事喫茶」も流行っているらしいけど、こんなのもやはり、自分を大事にして欲しい、扱って欲しいという現代人の渇望の表れなんだろうね。だから「サービス業」はまだまだ伸びるでしょうね。自分を大切に扱ってくれるなら、多少のお金も惜しくないってね。
 でも、自分は尊い=だから他者も尊い=つまりみんな尊いってことがうなづけたなら、みんなお互いを大切にして接するから、みんな心が満たされ安らかに生きられるのにね。

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March 28, 2006

お内仏ほおんこさん

 例年二月に勤めているが、今年は寒かったし都合がつかなかったので三月も終わりになってしまった。
 仏事とは色も形も見えはしない「敬う心・精神」が読経やお荘厳などの形になって表されるものだ。仏事という型に心・精神を注ぎ込むことである。それはまた、一人だけではなく、共なる願いのみんなの心・精神を一緒に注ぎ込むことでもある。報恩講は、親鸞聖人の御恩に報いるため、ありったけの心・精神を溢れさせるほど注ぎ込んで勤める仏事なのである。
 今年の庫裏お内仏のほおんこさんは、報恩いたらぬ自分を懺悔するものになってしまった。にも係らず、4人の方がお参りして下さった。ほんとにありがたいことであります。なむあみだぶつ 合掌

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March 22, 2006

NHK『知るを楽しむ』精進料理

 NHK教育テレビ 『知るを楽しむ 何でも好奇心 パトリス・ジュリアンの〝精進料理〟を学ぼう』 って初めて視たけど、なかなか面白かったな、テキスト買っとこ。

 

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March 21, 2006

お彼岸

 ブログを始めたはいいが、記事のネタを考えるのもけっこうタイヘン、考えてるうちに日付も変わっていしまうし。と、思っていたら、おっとー、いまはお彼岸なのだから、ブディストとしては何らかのことをブログにせねば、何のための〝ブディスト・ブンブン!〟だろうか。
 ということで、お彼岸について
 此の岸(私たちの「迷い」の側)から、彼の岸(仏陀の「悟り=真実」の側)に度る(わたる)ことを願う、真実を求める、願うこと(菩提心ポダイシン)にこそお彼岸の意義がある。
 昏迷している現代人に欠けているのは、この「菩提心」である。自我(自分の想い、好き嫌い、自己中心)で生きている愚かさに気づき、人間としての真実の生き方を探求し、目覚めようとする心(精神)が、現代における老若男女の日本人にすっかり見失われてしまっている。
 その点ではまだ明治の人は、精神を探求する賢い人が多かったと思う。しかし明治の人でも、まだ平和や平等の真理については未発達であったために、戦争へと道を誤ってしまった。だから今取りざたされる「国家の品格」などを取り戻そうとして明治の教育に逆戻りしてもダメだ。受け継がなければならないのは、健全な精神を求める謙虚な姿勢だ。
 ホント現代の日本人は自分の殻にぬくぬくと閉じこもり生きている人が多い。夢、幻想、妄想の中で生きてしまっている人も増えている。もっと自分の殻を破って、本当の世界、真実の世界=彼岸に目覚めなければいけない。自分の殻を破る力、突破する精神、それが彼岸を求める「菩提心」という精神だ。その精神道こそが、仏道(ブッダの道)であり、人間の生きる真実の道である。

 


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